2010年1月5日火曜日
あまりに、あんまりなAVATARのナヴィー
昨年の12月下旬であるがジェームズ・キャメロン監督の最新作「AVATAR」を観に行った。3D版を観たのだが完成度はかなり高い。予想を大きく超えるものではなかったが現時点では最高水準の立体映像であるのは間違いないだろう。映像技術の高さに比べて際立つのがストーリーの貧弱さである。これではインデアン対騎兵隊の西部劇と何ら変わらない。特に困惑するのは衛星パンドラの原住民、ナヴィー(Na'vi)の描き方である。アフリカの原住民か北米のインデアンのような設定なのである。自然と調和して一体に生きる姿を強調したかったらしいが、一部の地球人の文化や生活をコピーするだけなら何のために衛星パンドラという新世界を創造したのかわからない。もっと大胆な、人類からみて理解を超絶したような存在であってもよかったはずだ。このあたりがアメリカ人の限界なのだろうか。それともアフリカの原住民やインデアンがアメリカ人から見れば異星人のような存在なのか。時代設定は今から150年ほど未来であるが、現代の人類が懸命に開発しようとしている常温超伝導体がパンドラに鉱石として豊富に存在し、その鉱脈のもたらすマイスナー効果で巨大な岩山が多数空中に浮いているなど、非常にSF的な設定がされている。だが感心するのもここまでで、空中の岩山もただ出てくるだけでストーリー的に意味があるわけではない。またパンドラの大型生物は基本的に手足が六本なのだが、何故かナヴィーは人類と同じ四本であったり、首を傾げてしまう部分が目立つ。設定のツメが甘いようだ(ナヴィーの指は四本なのだが、AVATARは人間のDNAが混じるためか、五本指である)。
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