2010年5月2日日曜日

引越しと電子書籍

少し前になるが、1月末に引越しした。十数年住んだ江東区の賃貸マンションから、江戸川区の賃貸マンションへの引越しである。引越しに関していろいろと書きたいことがあるのだが、今回は本の事についてである。
読書が好きで、一度読んだ本はなかなか捨てられない。正確なページはわからなくても一度読んだ本は内容を大体憶えている。あるトピックについてまた詳しく知りたくなれば、どの本を見ればいいかほぼわかる。一度読んだ本は脳の延長なのだ。本を捨てることは記憶を捨てるような気がしてしまう。これまでに意を決して何度か本を処分したことがあるのだが、それでも段ボール箱で50箱を超える量である。一箱にハードカバーで30-40冊と考えれば、2千冊程度だろうか。写真にあるように分量としてもかなりのものだ。新居はサンルームがあるお陰で取り合えずそこに置いている。これから本棚を組み立てて本を並べる作業があるのだが、本棚の場所、即ち連続した壁を確保するだけでも大変である。次に引っ越す時は本のために部屋を余分に借りる必要もあるかもしれず、蔵書の維持コストは無視できるものではない。

本が物理的に持つ魅力、紙の感触や本の装丁、ページをめくる感覚、新刊の匂いなどその他の誘惑には抗い難いものがある。だがこれ以上の蔵書にはコストが重くのしかかる。KindleやiPadが気になるのである。あの写真の分量が数百グラムの端末に全て納まり、検索も簡単にできてしまう。一生の間に読む本を全て保存し、持ち歩くことができるのだ。味気ないかもしれないがその価値を認めざるを得ない。美術全集や写真集などは電子書籍で所有したいと思わないが、文庫本や新書など物理的な本の役割が情報の容器に近いものは、むしろ電子書籍の方が理に適うように思える。現在のKindleやiPadはまだまだ発展途上のものだが、今後の読書を大きく変える可能性を感じる。久々に欲しいと思うガジェットである。

2010年1月22日金曜日

真冬でも凍死しない、モントリオールのホームレス

1月9日からカナダへ行く機会があり、13日と14日にモントリオール市内に滞在した。雪は少ないが気温はマイナス10度から20度である。ホテルからレストランへ歩くだけでも寒くて凍えそうになる。繁華街にも人通りが少ないが、これには理由がある。暖房の効いた地下街が発達しており、人々はそちらを歩いているのである。もっとも人口が400万人程度の都市であり、地下街も大阪のような規模ではない。一番の繁華街であるサント・カトリーヌ通りの地下に沿って広がっているだけのようだ。多くの建物が地下街から行き来できるためショッピングにはそれで充分である。そんな真冬のモントリオールにもホームレスがいるのだ。それも地上の道端に座りこんでいるのである。凍死しないのだろうか。不思議に思って現地の人に聞いてみた。夜中にホームレスをシェルターまで運ぶバスが巡回しているそうだ。警官も見回っているとのこと。シェルター行きを拒否して自らの意思で路上で夜を過ごす者もいるのだが、ビルの排気口の傍にいるとか生存のためのノウハウはあるようだ。それでもたまに凍死する者はいるようだ。何とも凄まじい、命懸けのホームレス生活である。

2010年1月5日火曜日

あまりに、あんまりなAVATARのナヴィー

昨年の12月下旬であるがジェームズ・キャメロン監督の最新作「AVATAR」を観に行った。3D版を観たのだが完成度はかなり高い。予想を大きく超えるものではなかったが現時点では最高水準の立体映像であるのは間違いないだろう。映像技術の高さに比べて際立つのがストーリーの貧弱さである。これではインデアン対騎兵隊の西部劇と何ら変わらない。特に困惑するのは衛星パンドラの原住民、ナヴィー(Na'vi)の描き方である。アフリカの原住民か北米のインデアンのような設定なのである。自然と調和して一体に生きる姿を強調したかったらしいが、一部の地球人の文化や生活をコピーするだけなら何のために衛星パンドラという新世界を創造したのかわからない。もっと大胆な、人類からみて理解を超絶したような存在であってもよかったはずだ。このあたりがアメリカ人の限界なのだろうか。それともアフリカの原住民やインデアンがアメリカ人から見れば異星人のような存在なのか。時代設定は今から150年ほど未来であるが、現代の人類が懸命に開発しようとしている常温超伝導体がパンドラに鉱石として豊富に存在し、その鉱脈のもたらすマイスナー効果で巨大な岩山が多数空中に浮いているなど、非常にSF的な設定がされている。だが感心するのもここまでで、空中の岩山もただ出てくるだけでストーリー的に意味があるわけではない。またパンドラの大型生物は基本的に手足が六本なのだが、何故かナヴィーは人類と同じ四本であったり、首を傾げてしまう部分が目立つ。設定のツメが甘いようだ(ナヴィーの指は四本なのだが、AVATARは人間のDNAが混じるためか、五本指である)。

2010年1月4日月曜日

何故か警戒が手薄な裁判所

ある事情があって、月に一回程度のペースで大阪地方裁判所へ行く機会がある。意外なのは裁判所の警備体制である。裁判所は民主主義の根幹である三権分立の一翼を担う司法機関である。当然ながら水も漏らさぬ万全の警備体制が敷かれていると思っていたのだが、その実態は拍子抜けするぐらいである。門や建物の入り口に守衛さんは立っているし、厳しい雰囲気は漂っているのだが、敷地内に入り、建物に入り、目的の部署の窓口に行き着つくまでに一度も呼び止められたり何かに氏名を記入することがない。身分証明書や呼び出し状の類を見せることもないし、荷物のチェックも一切無い。私はスーツを着ないし、パソコンやその他の荷物を入れた大き目のリュックを背負っているのだが、ノーチェックで建物内を自由に歩き回れる。これでいいのかと思ってしまうほどだ。弁護士控室、相手方控室などが廊下に面して並んでいるのだが、弁護士など関係者でなくてもそれらの部屋へ自由に入室できてしまう(これらの部屋は廊下に面した側が全面ガラス張りで、中の様子は廊下からよく見える)。

裁判所はその性質上、問題を抱えた人が来ることが多いはずで、それを物理的に解決したいと画策する人がいてもおかしく無いだろう。裁判所は性善説に立っているのだろうか。性善説が真理なら調停や裁判、法執行などが最低限で済むはずなのだが。川を隔てたすぐ近くにある中ノ島図書館を思い出して複雑な気持ちになった。確かに裁判所には盗み出したいものはほとんどないだろう。