「神宮前のアトリエ」はある芸術家のアトリエ兼住宅として設計された。その後の経緯はわからないが、今は高級フレンチ・レストランとして営業している。大幅な改築が行われており、そのデザインは何とも言いようがない。
どんなに手入れをしても建物には寿命がある。また持ち主の状況も変わる。家族構成やライフスタイルの変化などで、間取りが生活に合わなくなることもある。二十年、三十年という期間では増改築もあり得るだろう。建築は作品であると同時に実用品でもあり機能性も重要なのだ。オリジナルのままであり続けるためには住む人のライフスタイルも変えられないことになる。その結果、住み手に犠牲を強いることになってしまう。ここに芸術作品としての建築の難しさがある。絵画や彫刻などの純粋な芸術作品は、完成し依頼人に引き渡された後は、意図的に変更が加わえられる事はまず考えられない。劣化や修復のために手が加わった場合ですら、真贋問題に発展する事さえある。
安藤建築の場合、施主の多くがまた安藤に増築を依頼するというデータがあり、リピート率は高い(安藤の著作「家 1969-96」では、自らこれまでに設計した家のおよそ三割は増築していると思う、と述べている)。安藤の作風は好き嫌いがはっきりし易いが、気に入った人の満足度はかなり高いのだろう。折角安藤に頼んだのなら、増改築も安藤に頼んで欲しいものである。
「神宮前のアトリエ」にはどうしても言っておきたいことがある。そこで営業しているフレンチ・レストランは高級店らしく、値段がかなり高い。当惑するのは「世界的建築家の安藤忠雄が設計した...」などと安藤建築であることを宣伝に使っている事である。これは如何なものか。宣伝に使うならオリジナルのままか、もし増改築がされたとしても安藤自身が行ったか、最低でも安藤の承諾を得た場合に限るべきだろう。料理が本物であるなら、建物も本物であるべきだ。こんな事だとレストランとしての経営姿勢まで疑われても仕方がない。
2008年6月14日土曜日
2008年6月8日日曜日
自宅、残せないつらさ
大阪市内にある自宅は、正確な竣工年度はわからないが築七十年以上は間違いないと思う。間取りが古く、傷んでいるところもある。しかし柱や土台はしっかりしているので大幅なリフォームをすれば物理的にはまだまだ使えるはずだ。しかし経済的には難しいのである。
恐らくその最大の原因は私自身がそこに住めないことだ。一昨年に母が亡くなり今は空家になっている。相続して今は私の自宅になっているが、私は仕事で東京に在住している。この状況は当面変わる見込みがない。折角の自宅がありながらここに住めないのだ。では「必要になるまでそのままに置いておけばいいではないか」と言う人もいる。不動産はこれが難しい。まず固定資産税を毎年払う必要がある。火災保険にも入っている。誰も住まない家は痛みがが早く、修理も必要になる(実際に土壁が一部崩れて補修している)。時々は親戚に様子を見に行ってもらう事もあるし、私も月に一度ぐらいは行っている。あれやこれやで年間百万円を超える出費になっているのだ。金利を五パーセントと考えれば二千万円のローンを永久に組んでいるのと変わらない。活用できない不動産は負債と同じなのだ。
そもそも自宅を所有する理由は住む場所が必要だからだ。持たない場合はどこかに借りて家賃を払うしかない。買った方が有利なのか借りた方が有利なのか、判断は難しいが、とにかく住むところは必要だ。問題は自分が住まない不動産を所有する意味である。合理的に考えれば収益を産まない不動産を所有する意味はない。つまり売却するか賃貸に出するかしかない。既に書いたように何もしない、という選択肢はない(自分の家への愛着や思い出に二千万円の価値を見出すなら別だが)。
こういう理由で、まだ使えるはずの家を壊して賃貸物件を建てることを考えている。苦しく悩ましい決断である。最近のほとんど建て替えのようなリフォーム番組を見ていると、羨ましくて仕方がない。
恐らくその最大の原因は私自身がそこに住めないことだ。一昨年に母が亡くなり今は空家になっている。相続して今は私の自宅になっているが、私は仕事で東京に在住している。この状況は当面変わる見込みがない。折角の自宅がありながらここに住めないのだ。では「必要になるまでそのままに置いておけばいいではないか」と言う人もいる。不動産はこれが難しい。まず固定資産税を毎年払う必要がある。火災保険にも入っている。誰も住まない家は痛みがが早く、修理も必要になる(実際に土壁が一部崩れて補修している)。時々は親戚に様子を見に行ってもらう事もあるし、私も月に一度ぐらいは行っている。あれやこれやで年間百万円を超える出費になっているのだ。金利を五パーセントと考えれば二千万円のローンを永久に組んでいるのと変わらない。活用できない不動産は負債と同じなのだ。
そもそも自宅を所有する理由は住む場所が必要だからだ。持たない場合はどこかに借りて家賃を払うしかない。買った方が有利なのか借りた方が有利なのか、判断は難しいが、とにかく住むところは必要だ。問題は自分が住まない不動産を所有する意味である。合理的に考えれば収益を産まない不動産を所有する意味はない。つまり売却するか賃貸に出するかしかない。既に書いたように何もしない、という選択肢はない(自分の家への愛着や思い出に二千万円の価値を見出すなら別だが)。
こういう理由で、まだ使えるはずの家を壊して賃貸物件を建てることを考えている。苦しく悩ましい決断である。最近のほとんど建て替えのようなリフォーム番組を見ていると、羨ましくて仕方がない。
2008年6月3日火曜日
六甲の集合住宅I、集合住宅の傑作
安藤忠雄の代表作に「六甲の集合住宅」がある。これは今も続く「六甲プロジェクト」の一部であり、その中で一番最初に建てられた「六甲の集合住宅I」である。1983年に竣工した全20戸の集合住宅で、約60度の急斜面に建っている。地盤の強度解析に安藤が初めてコンピュータを使った作品である。
安藤はその著作の中で「建築は実際にその空間を体験することが重要だ」という主旨のことを述べており、それを実感した作品だった。現地を訪ねてみる前に作品集などでその概要を知っていたのだが、写真からは正直に言えばあまり強い印象は受けなかった。期待していなかったためもあるだろうが、実物を見て衝撃を受けたと言ってもいい。建物が放つ存在感と質感が、周囲の空間を圧倒している。
建っている場所は個人住宅、アパート、マンションが適当に混在したどこにでもある住宅地である。その特徴のない街の、行き止まりになった袋小路に面して建てられている。住宅地全体が山の斜面にあり、常に下から見上げる方向になるため袋小路に入らない限り見えない。何の変哲もない住宅街に突然出現する高い質感を持つデザインは強烈な印象となって記憶に残っている。
敷地面積一杯に建てられており法的規制のため、必ずしも安藤の納得できるデザインにはならなかったらしい。確かに安藤が得意とする空間を切り取るフレームがここにはない。テラスや路地、広場のようなパブリックスペースが設けられ、豊かな空間を感じられる設計になっているそうだが、内部を体験できないのが残念である。
住んでみたいと思う集合住宅の一つである。ただ駅から近いわけではなく、また駅から延々と上り坂である。年をとれば住めないかも知れない。「住吉の長屋」とは別の厳しさを持つ住まいである。
安藤はその著作の中で「建築は実際にその空間を体験することが重要だ」という主旨のことを述べており、それを実感した作品だった。現地を訪ねてみる前に作品集などでその概要を知っていたのだが、写真からは正直に言えばあまり強い印象は受けなかった。期待していなかったためもあるだろうが、実物を見て衝撃を受けたと言ってもいい。建物が放つ存在感と質感が、周囲の空間を圧倒している。
建っている場所は個人住宅、アパート、マンションが適当に混在したどこにでもある住宅地である。その特徴のない街の、行き止まりになった袋小路に面して建てられている。住宅地全体が山の斜面にあり、常に下から見上げる方向になるため袋小路に入らない限り見えない。何の変哲もない住宅街に突然出現する高い質感を持つデザインは強烈な印象となって記憶に残っている。
敷地面積一杯に建てられており法的規制のため、必ずしも安藤の納得できるデザインにはならなかったらしい。確かに安藤が得意とする空間を切り取るフレームがここにはない。テラスや路地、広場のようなパブリックスペースが設けられ、豊かな空間を感じられる設計になっているそうだが、内部を体験できないのが残念である。
住んでみたいと思う集合住宅の一つである。ただ駅から近いわけではなく、また駅から延々と上り坂である。年をとれば住めないかも知れない。「住吉の長屋」とは別の厳しさを持つ住まいである。
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