出張で博多へ行く機会があった。実は今年は何回か博多へ行っているのだが、今回はたまたま週末を博多で過ごせたので、思い立って太宰府天満宮と大宰府跡へ行くことにした。何れも行くのは初めてである。大宰府跡が予想と違っていて少し驚いた。思っていたよりかなり立派だったのである。敷地の広さや柱の礎石の数と大きさから、多くの立派な建物が立ち並んでいたことが伺える。説明の看板にある復元予想図を見ると三階建ての宮殿だったりする。大宰府は平城京のように塀で囲われており、人々は朱雀門のような大きな門から出入りしていた。また塀の外にも役所の建物が広がっていた。流石に平城京や平安京のような規模ではないが、当時の人口や国力を考えればかなりの大都市なのではないか。実際に九州の統治に加えて外交と防衛の要衝でもあった。
大宰府は菅原道真が左遷された場所であり、左遷された恨みで祟りがあったぐらいだから掘っ立て小屋のようなものが数軒並ぶだけの相当に寂れた場所を想像していた。だが全く違っていたようだ。だとすれば果たして祟るような話だったのか。私自身は東京のようなゴミゴミして忙しない大都会を離れて地方都市で暮らすのも悪くないのだろう、と思う今日この頃である。時代が違うので今の感覚では計れないが、少なくとも当時の九州にもそこで生まれ育った人々が暮らしていたわけで、そこへ転勤になったからといって嘆くなら地元の方々には失礼ではないか。
最近読んで似たような感想を持った小説が山崎豊子の「沈まぬ太陽」である。会社の金でアフリカへ何年も行けるなど、羨ましく思うのは私だけだろうか。主人公の生き様にもあんまり感情移入できなかったのは、やはり時代が違っているからなのか。
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